デュポン醸造所(Brasserie Dupont)は、エノー州(Province de Hainaut)のルーズ=アン=エノー(Leuze-en-Hainaut)にあるブルワリーです。
ブルワリーがあるトゥルプ(Tourpes)には、かつてベネディクト会の修道士であるガンブルー(Gembloux)が所有する農場がありました。
デュポン醸造所の前身となるリモー=デ・リッダー醸造所は(Brasserie Rimaux-De Ridder)は、1844年にアドルフ(Aldophe)とジュリー・デ・リッダー(Julia De Ridder)兄妹が、農場に働きに来る季節労働者のためにビール造りを始めたことに由来します。セゾン(saison)や蜂蜜を使ったビール(Bière de Miel)などのビールを造っていました。
妹のジュリーはフランソワ・リモー(François Rimaux)と結婚します。ジュリーが亡くなった後は、フランソワが農場とブルワリーを引き継いで経営を行なっていましたが、第一次世界大戦(1914−1918)でドイツ軍が醸造設備の銅製ケトルを接収することにより醸造を続けることが困難になります。
第一次世界大戦後、フランソワの子供のネリー(Nelly Rimaux)が後を継ぐことに興味を示さなかったため、フランソワは買い手を探すことになります。
1920年4月6日、アルフレッド・デュポン(Alfred Dupont)と妻のマリー・テリーズ(Marie-Thérèse)は、カナダに移住しようとしていた息子のルイ・デュポン(Louis Dupont)を思いとどまらせるために農場とブルワリーを購入したことから、デュポン醸造所が誕生しました。
フランソワ・リモーはデュポン一家とともに六ヶ月にわたり、ビールの造り方を伝承しました。
初代 ルイ・デュポン(Louis Dupont) 1920〜1964年
二代目 シルバ・ロジエ(Sylva Rosier)(ルイの甥) 1945〜1982年
三代目 マルク・ロジエ(Marc Rosier)(シルバの息子) 1962〜2002年
四代目 オリビエ・デディカー(Olivier Dedeycker)(シルバの孫) 1990年〜
ルイ・デュポンには子供がいなかったため、シルバ・ロジエ(Sylva Rosier)がブルワリーを引き継ぐこととなります。シルバは、ジーバーグ醸造所(Brouwerij Zeeberg)で働いておりラガービールの醸造に長けていたため、デュポン醸造所にラガービールの設備を導入しました。1957年には汚染リスクを減らすためにクールシップ(coolship)からプレート式熱交換器に変えたり、発酵タンクを木樽からステンレス製のタンクに変えたりとブルワリーの近代化を行なっています。
また、シルバの娘のクロード(Claude)は醸造所内にROLA研究所を造り、麦汁や酵母、瓶内二次発酵のメカニズムの研究などを行なうようになります。
デュポン醸造所が瓶内二次発酵をしっかり行うという礎はこの頃にうまれました。
この研究所は、クロードの引退とともに2002年に閉鎖されています。
もとも農業技師だったルイ・デュポンは地元の大麦を購入し自分たちで麦芽にしてビール造りに使用していました。しかし、1988年に火災が発生したため、今では大麦麦芽を購入して使用しています。
1844年頃から使用されていた木製のマッシュタンは、2008年にイタリアのVELO製のステンレスタンクに置き換えられました。今でも木製のマッシュタンはエントランスで保存されています。
ビール造りに使用する水は地下80mから汲み上げた硬水を使用しており、煮沸釜は1920年に引き継いだ時に導入した銅製ケトルを今でも使用しています。麦汁を直火で煮沸することにより糖分の一部がカラメル化するため、デュポン独特の味わいがうまれます。
伝統的な醸造プロセスと最新の設備を両立させ、高いバランスで仕上げたビールはどれも素晴らしいものばかりです。
1バッチで55〜60HL(5.5〜6kL)を仕込み、年間生産量は20,000HL(2,000kL)を超えています。