カンティヨン醸造所(Brasserie Cantillon)は、ブリュッセル市内にある家族経営のブルワリーです。
天然の微生物を活用した伝統的なランビックを造っています。
創業者のポール・カンティヨン(Paul Cantillon)の父であるオーギュスト(Auguste)は穀物商人でした。息子のポールは父親の跡を継ぐ気がなかったため、オーギュストは息子が好きなビール造りが出来るように売りに出ているブルワリーを探します。
1894年、ゼンヌ川沿いのレンベーク(Lembeek)地区にあったヴァンデザンデ=ヴァン・ロイ醸造所(Brasserie Vandezande-Van Roy)を購入し、ビール造りを始めるようになりました。
1900年、ポール・カンティヨンと妻のマリー・トロフ(Marie Troch)はブリュッセルに移住し、グーズブレンダーを始めます。1937年までは自ら麦汁を造ることなく、近くの醸造所から麦汁を買ってブレンドして販売していました。
ポールとマリーの間には、息子のロバート(Robert)とマルセル(Marcel)、娘のジョーゼット(Georgette)とフェルナンド(Fernande)という4人の子供がいました。
第一次世界大戦(1914-1918)が終わり、しばらくするとポールは二人の息子とともに事業を拡大していきます。
ブリュッセルの南東、ウッフェ(Ouffet)にあったナショナレ・デュ・ネブロン醸造所(Brasserie Nationale du Néblon)が1936年に廃業したため、その機材を購入しカンティヨン醸造所に移設しました。
カンティヨン醸造所による麦汁が造られたのは1938年のことです。
不運なことに、第二次世界大戦(1939-1945)が始まったため、息子たちは動員されてしまいます。戦時下においてビール造りを続けることは困難になりました。
戦後になってようやく生産が再開されましたが、1952年にポール、1958年にマリーが亡くなっています。
息子のロバートとマルセルは後を継ぎビールを造り続けます。1955年には戦前の生産量まで回復し、1958年には年間生産量2,500HL(250kL)になりました。
そこまでは好調でしたが、ベルギー国内においてグーズやランビックなど、伝統的な酸味のあるビールへの需要は低下し始めます。
1960年、ロバートはマルセルに事業を譲ります。1969年には、ロバートの唯一の娘であるクロード(Claude)と結婚したジャン=ピエール・ヴァン・ロワ(Jean-Pierre Van Roy)に後継ぎをお願いします。
もともと教師を目指していたジャンですが、働いていた会社を辞めてビール醸造に携わるようになります。
1970年代にはベルギーにある他の醸造所と同様、カンティヨン醸造所もランビックに人工甘味料を加えたビールを造るようになります。それでも上手くいかず、売上は下がる一方でした。
まわりにあったブルワリーも続々と閉鎖してくような辛い時代が続きます。
1978年、ジャン=ピエールは伝統的なランビック醸造のみに専念することを決めます。さらに、ブリュッセル・グーズ・ミュージアム(Musée Bruxellois de la Gueuze)を開設し、ランビックを知ってもらうために地元の人や観光客向けに公開するようになりました。
そうして売上が向上するようになると、販売店への品質向上にも取り組みます。カンティヨンのボトルはコルク詰めされているのですが、ボトルを立てて保管するとコルクが乾いてしまい、炭酸が抜けてしまいます。そのため、ボトルを立てて保管する店舗には販売を止めるようになったそうです。
今でもカンティヨンのボトルがコルク詰めされた上に王冠が付いているのは、気密性を高めるためです。
1980年代になると海外向けの輸出も始まります。日本(小西酒造)をはじめ、アメリカ(シェルトンブラザーズ)、スウェーデン、フィンランドなどへの輸出によりカンティヨン醸造所の経営を助けることとなります。
1989年から息子のジャン・ヴァン・ロワ(Jean Van Roy)が手伝うようになり、2003年には後を継ぎます。ジャン=ピエール最後の醸造は2009年だそうです。
息子のジャンは小バッチでフルーツを使った実験的なランビックにもチャレンジしています。たとえば、ヘルシンキにあるOne Pint Pubのために赤スグリを使ったGroseilleや、コペンハーゲンにあるØlbutikkenのためにコケモモを使ったBlåbær Lambikなど。
2014年8月には生産量を倍増させるため、カンティヨン醸造所から300mほどの場所にあるランブール醸造所(Brasserie Limbourg)(1960年代に閉鎖)を購入し、貯蔵スペースを拡大しています。