ニューイングランドIPAとは?

最近、ニューイングランドIPA(New England IPA)という言葉を国内でも耳にすることが多くなってきました。

ニューイングランドIPAは、大量に使用するフレッシュなホップの香りとソフトな口あたりを重視し、苦味を抑えたビアスタイルです。飲まれたことがあるかたは、今までのIPAとも大きく違うという印象を持たれたのではないでしょうか。

今回お声がけいただき、両国・麦酒倶楽部ポパイさんにて開催されているGood Beer Clubさんの勉強会でお話しする機会がありましたので、その内容を改稿して記事化致しました。

30分程度でしたので詳しく語りきれていないところが多いですが、今後また補足していければと思います。

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Brouwerij 3 Fonteinen(ドリー・フォンティネン醸造所)

ドリー・フォンティネン醸造所(Brouwerij 3 Fonteinen)は、ブリュッセルの南側にあるベールセル(Beersel)という町にあるブルワリーです。

由来のひとつとして、1883年にヤコブ・ヴァンデルリンデン(Jacobus Vanderlinden)と妻のジョアンナ・ブリエンス(Joanna Brilens)が開いた宿屋とカフェがあります。幾度か経営者が変わった後、町随一のランビックブレンダーとして有名だったベールセル町長のジャン=バプティスト・デナイヤー(Jean-Baptiste Denaeyer)が所有するようになりました。

同時期にドリー・フォンティネンの創始者となるガストン・ドゥベルデル(Gaston Debelder)と妻のレイモンド(Raymonde)は近くにあった「ドリー・ブロネン・カフェ(Drie Bronnen café)」で自分たちが造ったランビックを提供していました。このカフェ事体は後継者がいなかったために1953年に閉店しています。

1961年、ガストンは規模を拡大するため、デナイヤーの宿屋とカフェを購入しました。これがドリー・フォンティネン醸造所の起源になります。

オランダ語でドリー・ブロネン(Drie Bronnen)は「3つの泉」、ドリー・フォンティネン(3 Fonteinen)は「3つの噴水」を意味します。Drie=3に込められた意味は、ランビック、ファロ、クリークを注ぐためのハンドポンプに由来します。

1982年頃からは息子のアルマン(Armand Debelder)と、ヒド(Guido Debelder)とともに働くようになります。
仕事ぶりに満足し、1991年にアルマンにブルワリーを譲りました。

1997年、アルマンはHORAL(Hoge Raad voor Ambachtelijke Lambiekbieren)のチェアマンとなり、ランビックの普及活動を行うようになります。

ドリー・フォンティネンではジラルダン醸造所(Brouwerij Girardin)、リンデマンス醸造所(Brouwerij Lindemans)、ボーン醸造所(Brouwerij Boon)から麦汁を購入して、ランビック/グーズ造りを行っています。

1998年にはリース契約によるコンピュータ制御の醸造システムを導入し、翌年から麦汁造りも行うようになりました。

2009年に、ドリー・フォンティネンにとって不運な出来事が二つおきました。
一つ目は、リースしていた機材の買い手が見つかったということで、醸造設備を手放さなければならなくなったことです。
もう一つは、2009年5月16日、貯蔵室のサーモスタットが故障したことにより60℃まで室温が上がった結果、貯蔵していた8万本のランビックをダメにしてしまいました。そのうち1万6千本は瓶が破裂したそうです。
残ったランビックの一部は蒸留されてArmand’s Spiritsという名前で販売されています。

一度は諦めかけた自らの麦汁造りですが、近年、醸造者としてミヒャエル・ブランカート(Michaël Blancquaert)が加わり、2012年にはふたたび醸造機材を導入し、少量ながら自らの麦汁造りも再開しています。

2015/2016シーズンのランビックにはこの麦汁も使用されたとの発表がありました。
https://www.facebook.com/Brouwerij3Fonteinen/videos/1380639295294603/

さらに2017年には、ロトの町にソーシャルセンターを設立し、そこでランビック/グーズを造るようになるとのことです。

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Brasserie Cantillon(カンティヨン醸造所)

カンティヨン醸造所(Brasserie Cantillon)は、ブリュッセル市内にある家族経営のブルワリーです。

天然の微生物を活用した伝統的なランビックを造っています。

創業者のポール・カンティヨン(Paul Cantillon)の父であるオーギュスト(Auguste)は穀物商人でした。息子のポールは父親の跡を継ぐ気がなかったため、オーギュストは息子が好きなビール造りが出来るように売りに出ているブルワリーを探します。
1894年、ゼンヌ川沿いのレンベーク(Lembeek)地区にあったヴァンデザンデ=ヴァン・ロイ醸造所(Brasserie Vandezande-Van Roy)を購入し、ビール造りを始めるようになりました。

1900年、ポール・カンティヨンと妻のマリー・トロフ(Marie Troch)はブリュッセルに移住し、グーズブレンダーを始めます。1937年までは自ら麦汁を造ることなく、近くの醸造所から麦汁を買ってブレンドして販売していました。

ポールとマリーの間には、息子のロバート(Robert)とマルセル(Marcel)、娘のジョーゼット(Georgette)とフェルナンド(Fernande)という4人の子供がいました。

第一次世界大戦(1914-1918)が終わり、しばらくするとポールは二人の息子とともに事業を拡大していきます。

ブリュッセルの南東、ウッフェ(Ouffet)にあったナショナレ・デュ・ネブロン醸造所(Brasserie Nationale du Néblon)が1936年に廃業したため、その機材を購入しカンティヨン醸造所に移設しました。

カンティヨン醸造所による麦汁が造られたのは1938年のことです。
不運なことに、第二次世界大戦(1939-1945)が始まったため、息子たちは動員されてしまいます。戦時下においてビール造りを続けることは困難になりました。

戦後になってようやく生産が再開されましたが、1952年にポール、1958年にマリーが亡くなっています。
息子のロバートとマルセルは後を継ぎビールを造り続けます。1955年には戦前の生産量まで回復し、1958年には年間生産量2,500HL(250kL)になりました。

そこまでは好調でしたが、ベルギー国内においてグーズやランビックなど、伝統的な酸味のあるビールへの需要は低下し始めます。

1960年、ロバートはマルセルに事業を譲ります。1969年には、ロバートの唯一の娘であるクロード(Claude)と結婚したジャン=ピエール・ヴァン・ロワ(Jean-Pierre Van Roy)に後継ぎをお願いします。
もともと教師を目指していたジャンですが、働いていた会社を辞めてビール醸造に携わるようになります。

1970年代にはベルギーにある他の醸造所と同様、カンティヨン醸造所もランビックに人工甘味料を加えたビールを造るようになります。それでも上手くいかず、売上は下がる一方でした。

まわりにあったブルワリーも続々と閉鎖してくような辛い時代が続きます。

1978年、ジャン=ピエールは伝統的なランビック醸造のみに専念することを決めます。さらに、ブリュッセル・グーズ・ミュージアム(Musée Bruxellois de la Gueuze)を開設し、ランビックを知ってもらうために地元の人や観光客向けに公開するようになりました。

そうして売上が向上するようになると、販売店への品質向上にも取り組みます。カンティヨンのボトルはコルク詰めされているのですが、ボトルを立てて保管するとコルクが乾いてしまい、炭酸が抜けてしまいます。そのため、ボトルを立てて保管する店舗には販売を止めるようになったそうです。
今でもカンティヨンのボトルがコルク詰めされた上に王冠が付いているのは、気密性を高めるためです。

1980年代になると海外向けの輸出も始まります。日本(小西酒造)をはじめ、アメリカ(シェルトンブラザーズ)、スウェーデン、フィンランドなどへの輸出によりカンティヨン醸造所の経営を助けることとなります。

1989年から息子のジャン・ヴァン・ロワ(Jean Van Roy)が手伝うようになり、2003年には後を継ぎます。ジャン=ピエール最後の醸造は2009年だそうです。

息子のジャンは小バッチでフルーツを使った実験的なランビックにもチャレンジしています。たとえば、ヘルシンキにあるOne Pint Pubのために赤スグリを使ったGroseilleや、コペンハーゲンにあるØlbutikkenのためにコケモモを使ったBlåbær Lambikなど。

2014年8月には生産量を倍増させるため、カンティヨン醸造所から300mほどの場所にあるランブール醸造所(Brasserie Limbourg)(1960年代に閉鎖)を購入し、貯蔵スペースを拡大しています。

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Brasserie Dupont(デュポン醸造所)

デュポン醸造所(Brasserie Dupont)は、エノー州(Province de Hainaut)のルーズ=アン=エノー(Leuze-en-Hainaut)にあるブルワリーです。

ブルワリーがあるトゥルプ(Tourpes)には、かつてベネディクト会の修道士であるガンブルー(Gembloux)が所有する農場がありました。

デュポン醸造所の前身となるリモー=デ・リッダー醸造所は(Brasserie Rimaux-De Ridder)は、1844年にアドルフ(Aldophe)とジュリー・デ・リッダー(Julia De Ridder)兄妹が、農場に働きに来る季節労働者のためにビール造りを始めたことに由来します。セゾン(saison)や蜂蜜を使ったビール(Bière de Miel)などのビールを造っていました。
妹のジュリーはフランソワ・リモー(François Rimaux)と結婚します。ジュリーが亡くなった後は、フランソワが農場とブルワリーを引き継いで経営を行なっていましたが、第一次世界大戦(1914−1918)でドイツ軍が醸造設備の銅製ケトルを接収することにより醸造を続けることが困難になります。

第一次世界大戦後、フランソワの子供のネリー(Nelly Rimaux)が後を継ぐことに興味を示さなかったため、フランソワは買い手を探すことになります。

1920年4月6日、アルフレッド・デュポン(Alfred Dupont)と妻のマリー・テリーズ(Marie-Thérèse)は、カナダに移住しようとしていた息子のルイ・デュポン(Louis Dupont)を思いとどまらせるために農場とブルワリーを購入したことから、デュポン醸造所が誕生しました。
フランソワ・リモーはデュポン一家とともに六ヶ月にわたり、ビールの造り方を伝承しました。

初代 ルイ・デュポン(Louis Dupont) 1920〜1964年
二代目 シルバ・ロジエ(Sylva Rosier)(ルイの甥) 1945〜1982年
三代目 マルク・ロジエ(Marc Rosier)(シルバの息子) 1962〜2002年
四代目 オリビエ・デディカー(Olivier Dedeycker)(シルバの孫) 1990年〜

ルイ・デュポンには子供がいなかったため、シルバ・ロジエ(Sylva Rosier)がブルワリーを引き継ぐこととなります。シルバは、ジーバーグ醸造所(Brouwerij Zeeberg)で働いておりラガービールの醸造に長けていたため、デュポン醸造所にラガービールの設備を導入しました。1957年には汚染リスクを減らすためにクールシップ(coolship)からプレート式熱交換器に変えたり、発酵タンクを木樽からステンレス製のタンクに変えたりとブルワリーの近代化を行なっています。
また、シルバの娘のクロード(Claude)は醸造所内にROLA研究所を造り、麦汁や酵母、瓶内二次発酵のメカニズムの研究などを行なうようになります。
デュポン醸造所が瓶内二次発酵をしっかり行うという礎はこの頃にうまれました。
この研究所は、クロードの引退とともに2002年に閉鎖されています。

もとも農業技師だったルイ・デュポンは地元の大麦を購入し自分たちで麦芽にしてビール造りに使用していました。しかし、1988年に火災が発生したため、今では大麦麦芽を購入して使用しています。

1844年頃から使用されていた木製のマッシュタンは、2008年にイタリアのVELO製のステンレスタンクに置き換えられました。今でも木製のマッシュタンはエントランスで保存されています。

ビール造りに使用する水は地下80mから汲み上げた硬水を使用しており、煮沸釜は1920年に引き継いだ時に導入した銅製ケトルを今でも使用しています。麦汁を直火で煮沸することにより糖分の一部がカラメル化するため、デュポン独特の味わいがうまれます。

伝統的な醸造プロセスと最新の設備を両立させ、高いバランスで仕上げたビールはどれも素晴らしいものばかりです。

1バッチで55〜60HL(5.5〜6kL)を仕込み、年間生産量は20,000HL(2,000kL)を超えています。

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